檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社)レビュー

賭博/偶然の哲学 (シリーズ道徳の系譜)

賭博/偶然の哲学 (シリーズ道徳の系譜)



 “生きる”ことは、博打を打つこと。いかなる行為も、その“結果”の必然を100%保証してくれるわけではないのに、自己再帰的な“個人”は、“結果”の「偶然性」を引き受けざるを得ない。「現在であるということの価値」とは、「予測の文脈」を超えた「賭け」なのだ。「偶然性」の論理と倫理という問題を、競馬という「賭博」の分析や、九鬼周造フーコーそしてドゥルーズの思索を通して、考察する。「現在」とは、一回性に束縛された「出来事」そのものであるが、しかしそれは、「その都度」現れる。これが、あらゆる「自然」性を規定するものだ。(自己‐)「統治」の論理は、「自然」に介入するが、これすら実は「賭け」なのだ。なんとなれば「環境規定的生物としてのわれわれにとって、(…)何を何処まで統治できるのか、本当は誰にも何も分からないからである」。そして、「統治」の論理のまた「賭け」であるという事実は、「罪と罰のシステム化」要するに(自己‐)「責任」のロジックで隠蔽されていくわけである。かくして、現在の「リスク社会」は、われわれの前に現象する。しかしわれわれは、「リスク社会論の陰鬱さと狡知性から、賭けの倫理の信を基本とした場面へ、まだ政治の議論を繋げていない」のだ。