橋爪大三郎『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房)レビュー

裁判員の教科書

裁判員の教科書



 名社会学者が一介の「しろうと」として、「裁判員をやることになってびっくりして、当惑して、虚をつかれた感じがした、その穴を埋めるように」、裁判員制度のプロセスとそれに臨むにあたっての心構えを簡潔に解説して、かつ諸々の批判を加えたもの。――というか、批判の矛先は、まず、あまたある裁判員制度解説本に向かっていて、「刑事裁判で裁かれるのは、検察官である」という刑事裁判の大原則を、「いまたくさん出ている裁判員の解説本に、ここのところがしっかり書いてありません。刑法関係の解説書にも、はっきり書いてありません。だから専門家でも、ピンと来ていないひとがいます」と、やんわりと指摘。さすが小室直樹門下のひとです。そう、この大原則を理解していないと、推定無罪=「疑わしきは罰せず」=「合理的な疑い」を差し挟む余地がちょっとでもあれば、有罪ではない(「有罪」という判断を下してはならない)、という刑事裁判の基本的ルールが、単なるお題目になってしまう。さらに、著者は、検察側の仕掛ける、様々な「感情」の動員に対しても、警鐘を鳴らす。とりわけ、「被害者側の発言を無視するのが正しい」という一文は、プリンシプルの貫徹を主張して、通俗的な反近代主義的言説を撃つものである*1。この本を通読すれば、裁判員制度導入を通じて、近代裁判制度の「原則」が揺らいでいるのがわかるけれども、それでも、「裁判員制度は、日本の法システムを、一歩前進させるよい機会です」と述べるのも、また原理的近代主義者たるゆえか。

*1:被害者救済は別の制度で保障されるべき、ということは本書で述べられているとおり。被害者側の「感情」が、裁判員の「感情」を動員する、検察側の道具にさせられていることが、問題なのだ。