橋本健二『階級社会』(講談社)レビュー

階級社会 (講談社選書メチエ)

階級社会 (講談社選書メチエ)




 「格差社会」問題における、マルクス主義サイドからの応答だけれども、一連の「格差社会」本のなかでは、頭一つ抜きん出ていると感じた。
 橘木俊諮『日本の経済格差』、佐藤俊樹『不平等社会――さよなら総中流』を皮切りに「格差社会」というパースペクティヴが普及して、ご存知のように三浦展下流社会』のようなヒット商品も生まれたりするわけだが、これら一連の著作を概観してみて、何か総じて微温的な印象を拭えない。例えば、佐藤は「そもそも自分は「格差社会」を否定的に分析しているのではない」と言明して「格差社会」批判のムーヴメントに数えられるのを嫌がっているが、しかし、だからと言って、「格差社会(批判)」というパースペクティヴの<外部>に立っているわけではない。大竹文雄などのマクロ経済学者が、「格差」が拡がっている(ように見える)のは高齢者単身世帯の増加にあるとして、これを小泉政権が踏襲するのだけれども、大竹はのちに若年・中年層の消費における「格差」が拡大傾向にあるのを認め生涯所得「格差」の拡大の懸念を表明せざるを得なくなる。橘木の一連の著作や八年ぶりの続編というべき『格差社会』でも言及されているようなパースペクティヴの正当性が証明されたと言っていいと思うのだが、具体的な対処が示される段になると、何と言うか、どうにも歯がゆく感じてしまうのだ(山田昌弘『新平等社会』にも同様のことが言える)。個別具体的な“政策”が総体としてクリアカットに示されるわけではないのは、解っている。“政策”を可能にさせる財政的リソースの配分について、あまりにも無関心な「政治」に対する苛立ちが根底にはあるのだけれども、これは、ハーバーマスルーマン論争における、官僚制による「生活世界」の植民地化という問題性に通底するものだろう。要は、“官僚”の恩恵によって、私たちは生かされているのか、という問いである。
 著者は冒頭で、「class」というコトバを例えば「階層」と“意訳”したりせずに、ちゃんと「階級」と呼べ、と言う。マルクス主義的パースペクティヴが失効したのは、「中流幻想」が現代日本(というか七、八〇年代の、というべきか)において、いわばヘゲモニーを握っていて、“日本人”の大半の生活感覚に拒絶されたのが第一因である。だが、著者のいう「階級」の“復権”は、マルクス主義的パースペクティヴの復活というよりは、日本の“現在”における、ある種のまだるっこしさに亀裂をいれるのが本意であるように思われる。――本書において、何よりも強調されなければならないのは、著者が、「「搾取は悪だ」と主張する」意図を否定している点だろう。なんとなれば、「搾取の全廃は人々の能力の開花を妨げ、現在搾取されている人々の生活水準をさらに悪化させる危険があるからである」。これは、本書における“強み”である。しかし、「搾取」が諸階級間の富の量的差異を測るためだけの単なるタームであるとしたら(事実、本書ではそのように扱われている)、本文中に「搾取」というコトバを素のままで出すのではなく、やはり別のコトバで代用(もしくは創出)するか、あるいはカギカッコ付きのものとして“「搾取」”と表記してほしかった。薄ら“反サヨク”モードが瀰漫しているなか、紅衛兵のごとくこれに反応(脊髄反射?)するお子たちが少なくない以上、パフォーマティヴな遡及にいらぬ負担をかけるわけだから。
 階級理論の現在は、「資本家階級」「労働者階級」の間の「中間階級」(=プチブル)をさらに二つに分け、「旧中間階級」「新中間階級」の都合四つの<階級>を析出する。「旧中間階級」とは伝統的なプチブル、農業・商工業など生産手段を有しながらも小規模経営であるがゆえにそれを家族で担うなど、雇用がほとんど発生しない階級で、「新中間階級」とは「資本家が独占していた各種の権能を部分的に分かちもつ」がゆえに一般労働者と違い高賃金を得る存在、具体的には大(規模)企業の管理職、また高度な技能や資格という無形の“資産”を有する「労働者」のことである。これら四<階級>の分析については、実際に本書を紐解かれたい。…………さて、本書が、一連の「格差社会(批判)」本のなかでアドバンテージを獲得していると思われる、その最もたるところは、これらの著作や、あるいは経済学者から社会学者まで、「格差社会」対策として必ず挙げる、いわゆる「職業訓練」、これを著者は「教育学的誤謬」と呼んで、ここに「格差社会」是正の本質はないと、明確に斥けている点にある。もちろん、若年無業者をはじめとする「アンダークラス」、低賃金労働者に「職業能力」を施すのは、「ないよりあったほうがいいに決まっている」。しかし、企業が正社員採用をやめ非正規雇用労働者を活用する路線を選択する構造が変わらない以上、「職業能力を身につけて就職に成功したとしても、誰かが代わりにはじき出されるだけで、問題の解決にならない」。あるいは、「職業能力」を身につけても、誰かがその地位を空けない限り、就職できないだろう。景況の向上が、「新中間階級」における雇用のパイを増やすかもしれない。というよりも、「職業訓練」が「労働者階級」の「新中間階級」化を目指す以上、これに期待するしかないのだが、だからマクロ経済学者たちは半永遠の金融の量的緩和を唱えるわけである。リフレを意図したインタゲが失敗したら、ハイパーインフレまっしぐら。もっとも効果的なインフレ対策は、労働者を野垂れ死にさせることであることは、これら経済学者たちは黙っている。
 そこで、著者が提唱するのは、「新中間階級」の「時短」による、ワークシェアリングだ。このワークシェアリングは橘木なども提言しているが、また実際に過去に導入が諸企業間で検討されたが、なかなか根付かない。著者は「新中間階級」が「自らの階級的位置にあって自己否定を実践する」と象徴的に言っているが、要するに、これこそ「正念場」ということではないか。――このワークシェアリングについては、その“政策”的サポートとして、木村剛(タイホされなくてよかったね・笑)が過去に、法人税をあらかじめ高めに設定して、雇用を増やすごとに税率を下げていけばいい、というようなことを言っている。ま、思いつきで吹いただけかもしらんけれども、いづれにせよこの方向が、「格差社会」の克服が、「生活世界」の植民地化に抗うかたちで実践することを可能にするように思われる。――最後に、著者はロールジアン・リベラルに合流するが、果たして、私たちは「生活世界」に内在して「社会正義」を実現することができるだろうか。
 いづれにせよ、独身女性や母子家庭の経済的救済は、早急になされなければならない。社会保障費を削るより先に、強請り集りを繰り返す公務員ヤクザ(自治体ゴロ)を排除することが喫緊の課題ではないか。